人は生きていると「嫌なこと」「ツライこと」が本当に多いですよね。
ニュースなど見たり聞いたりしていると目を覆いたくなるような話題がたくさんあります。
運転のマナーが悪い人、
電車で大きな声で電話している人、
ゴミを平気でポイ捨てする人。
そんな人を見かけるだけで、こちらまでイヤな気持ちになってしまいます。
その本人は「誰かに見られている」というのを感じていないのかもしれません。
もちろん、わざとしている人もいるでしょう。
人というのはいつの間にか、「人を思いやる心」を無くしてしまったのでしょうか?
今こそ人は進化する時代
最近の世代は「悟り世代」と言うそうですね。
楽しいことがない。
人と付き合うのが面倒。
やりたいことが無く将来に夢もない。
そんな若者が増えているのだそうです。
この若者たちは、産まれてすぐこんな性格になった訳ではないでしょう。
テレビやスマホで日々、配信される「暗いニュース」や「社会の闇」。
そしてなにより、子供たちの手本にならなければならない
「大人の粗末な行動や言動」。
そういった事を、間近で見て感じてきた子供たちが「将来に絶望」して一生懸命、自己防衛しているのかも知れません。
こんな世の中であっても「自分の心」は豊かでありたい。穏やかでありたい。
そう考えることが、人間本来の「本当の姿」であると思います。
はじめに
私は無宗教なのですが、実家が仏教ですので、お坊さんの説法をお聞きする機会があります。
お坊さんの説法を聞いていると不思議なことに、いつの間にか心が穏やかになっています。
私が聞いた、ありがたいお坊さんの説法を、自分なりに解釈しご説明したいと思います。
ただ、私は歴史学者でも評論家でもありません。
もしも、解釈が間違いであったとしても、
「こういう受け取り方もあるんだな」
「こんな考えも面白いな」と思っていただければ幸いです。
説法とは?
まずはじめに説法とは何なのか説明しますと
① 仏教の教義を説き聞かせること。
② 物事の道理などを言い聞かせること。説教。
説法とは仏教では、人が人らしく生きていく「生き方」「心の在り方」という仏陀の教えを説き伝えることを指します。
仏陀は「悟り」を開眼したとき、この「知恵」を人に伝えるのを拒んだと言われています。
それは人には、到底「理解ができない」と考えたからです。
しかし、弟子の「梵天」がどうしても教えて欲しいと懇願し、ひとつまたひとつと、仏陀が「説いていった」そうてす。
説法は「法話」「説教」とも同じことになります。
言葉に抑揚を持たせて話す「説教」は6世紀ごろに日本に仏教が伝来してからというもの、古くから行われていたと言われています。
説教に「三味線」や「琵琶」といった楽器を使い語り継いでいくうちに「浄瑠璃」といった、お芝居に変化していったとも言われています。
説教を面白おかしくしていったのが「落語」「浪曲」といわれています。
一般的には僧侶など仏教に携わっている人物が、仏教の教えに基づいた話しを分かりやすく説き聞かせることとされています。
説教というと、悪いことをした時に一方的に叱られる事とイメージしてしまいますよね。
しかし、本来は「良い教えを説き伝える」事を指します。
説法には特定の決まった話しがあるということはなく、僧侶の経験談などを例に説法として話をしたり、世間の事件・事故をわかりやすく教えていただいたりします。
場合によっては小説など架空の物語からも主人公などの行動について引用してお話しされることもあります。
僧侶のお話しや仏法の話といっても特別堅苦しい話しばかりではありません。
聞き手が興味を示し耳を傾けられるよう工夫されたお話しをするケースのほうが最近では増えてきています。
仏教のお釈迦様は、「聴き手」に合わせたお話をされたといわれています
説法を説いたお話によって話の内容は変わり、
聴いた人の受け取り方によって印象に残る部分も変わってきます。
つまり説法に同じ話はなく、
その説法を聴いた人によって
「気付き」や「とらえ方」はひとそれぞれだということです。
仏教の教えとは
仏教の教えとは私ごときが一言で語れるわけもありませんが、ものすご~く簡単に説明すると、
「お釈迦様が悟られた知恵」
をわかりやすく教えていただくことになります。
まず、弟子の1人が「私はこのように聞きました」と仏陀の教えを文字に起こします。
そして、その文章を弟子500人で
「抜けている部分はないか?」
「解釈は間違っていないか?」
ということを、会議して議論をします。
そうして出来上がったものが「経典」「経文」なのです。
もちろん、インドで生まれ中国に渡り、日本へ伝来してきた歴史があるわけですが、その伝来してくる過程でもずいぶんと変化していったようです
その中で1番最初に、私の心に留まった言葉をご紹介します。
私が聴いて一番印象に残っている言葉は、「輪廻転生」です。
輪廻転生とは?
たとえ命が尽きたとしても、また新しい命へと転生し人生を繰り返し、何度も生き返ることを言います。
仏教だけでなく、古代エジプトやヒンドゥー教にも同じような思想があります。
人は何度も何度も生まれ変わり、いつの日か極楽浄土へいけるように輪廻転生を繰り返し「徳」を積む修行をしているということなのです。
輪廻転生をして人生を繰り返す時にあなたが
「どう生きてきたか?」
「どういうことをしてきたか?」
を試されているというのです。
あなたはどういう風に日々の生活を過ごしていますか?
人に迷惑をかけたり、人の悪口ばかり口にしている人に仏様が
「極楽に来ていいよ」と言ってくれるでしょうか?
人の物を平気で盗んだり、物を壊したりしている乱暴な人が極楽浄土へ行けるでしょうか?
人の「土下座」をわざわざ写真に写し「面白いから」という理由だけでインターネットに投稿する人もいます。
ある人は、会ったこともしゃべったこともない芸能人のスキャンダルに怒りをあらわにし、掲示板に悪口を書き込みます。
確かにその攻撃をされてる人は悪いことをしたかもしれません。
しかし、あなたのしているその報復や攻撃は果たして本当に正しいことですか?という話です
度が過ぎているんですよ。
ストレス発散としか思えません。
自分たちのしていることを
「良いこと」「正しいこと」
と錯覚しているのです。
これは、子供のしつけや、部下の教育にも言えることです。
あなたの考えを無理矢理押し付けていませんか?
あなた自身に出来ないことを、させようとしていませんか?
必要以上に相手に求めていませんか?
心が穏やかで豊かな人間になれたとき、やっと平穏な西の浄土へと迎え入れられるのです。
デジャブは前世の記憶
デジャブという言葉はご存知でしょうか?
一度も体験したことがないのに、「あっ!これ知ってる!?」
「夢で見た?」となぜか知っているかのように感じることです。
デジャブの語源はフランス語だといわれています。
これは私の考えですが、このデジャブは前世で体験したことが薄っすら記憶に残っているからではないでしょうか?
過去の断片的な記憶を、そのように勝手に都合の良いように解釈しているだけだという人がいますが、そのときに脳の中を実際に見て話をしているのでしょうか?
脳科学はまだまだ始まったばかりで、脳の中はほとんど解明されていません。
それにそんな風に考えてしまっていては、つまらないじゃないですか。
デジャブだ!過去の記憶が!って考えたほうが楽しいですよね?
実は輪廻転生は量子力学者が
科学的に存在すると答えています
アメリカのジム・タッカー博士は15年以上、前世の記憶がある子供達を調べていて「前世の記憶がある子供は存在する」と決定づけられると発表しました。
記憶は量子レベルのエネルギーであり、科学的に輪廻転生は説明できるということです。
現代社会は暮らしは本当に豊かになり、物が溢れる時代になりました。
大体のモノはお金さえあれば手に入ります。
しかし欲しい物が手に入ったとしても、いつまでたっても人は欲しがることをやめません。
いつも他人と比べてしまい文句ばかりを口にしてしまいます。
科学が発達しきったこれからの世の中は「心の豊かさ」を求めていく時代に移行していくと言われています。
このことが解っている人達はもうすでに動き初めていますよ。
そして、これに気がついた新しい人種が
「悟り世代」といわれる人たちなのかも知れませんね。
最後まで読んでいただきまして
ありがとうございました。